月々の言葉と季節の花(住職の法話)
振り返れば 出会いあり 別れあり
(『心のともしび』12月の言葉)
先日あるお宅にご法事で伺ったところ、仏花に菊などとともに千両が活けられていました。それを見ながら、ああ、後ひと月ちょっとでお正月がくるのだな、その前にあれもしなければ、これもしなければと、少し焦りのようなものを感じたことでした。
今年一年を振り返れば、さまざまな出来事が脳裏によみがえってきます。うれしいこと楽しいこともありましたが、あまり思わしくないこともありました。
また、新しい出会いもありましたが、悲しい別れもありました。
「出会いは人生を豊かにし、別れは人生を深くする」という言葉がありますが、まさに人生とは、「出会いと別れによって紡がれる物語」と言えるのではないでしょうか。
皆さんは『わすれられないおくりもの』という絵本をご存知でしょうか。こんなストーリーです。
動物仲間たちから慕われているアナグマがいました。アナグマは賢くて物知りで親切で、みんなに頼りにされています。
しかし、そんなアナグマも年を重ね老いていきます。やがて自らの死期を悟ったアナグマは、みんなに手紙を残して静かにこの世を去っていきました。残された仲間たちは深い悲しみに包まれます。
やがて深い雪に閉ざされた冬が去り、春が来て外に出られるようになると、仲間たちは集まってアナグマの思い出を語り合いました。
モグラはハサミの上手な使い方を教わったことを、カエルはスケートを教わったことを、キツネはネクタイの結び方を教わったことを、ウサギの奥さんは料理を教わったことを・・・。こんな風にアナグマは一人ひとりに、別れた後も宝物になるような、お互いに助け合えるような、そんな豊かな知恵や工夫を残してくれたのです。そしてみんなでお礼を言うのでした。「ありがとう、アナグマさん。」と。
「愛別離苦(あいべつりく)」の教えのとおり、私たちは出会った以上、どんなに愛する人とも大切な人とも、いつかは別れていかなければなりません。でもそれで終わりではないのです。出会いの中で培われた豊かな時間は、残された人のその後の人生の時間をずっと支え続けてくれるのです。
人は失って初めて、そのことの大切さや有難さに気づくものですが、私たちは別れを通して「感謝」の深い意味を知るのかもしれませんね。
無明 ー 自分の愚かさを知らないこと
(「心のともしび」11月の言葉)
以前、「人間は知っていること以外は知らない
存在なのですよ」と言われ、ハッとしたことがあ
ります。
東日本大震災の時に、「想定外」という言葉が
ずいぶん使われましたが、私たちは所詮「想定内」
でしかものごとを考えられない存在なのでしょう。
このように私たちは、いろいろなことを知って
いる・わかっているつもりでいますが、あくまで
「つもり」であって、実際には、世界のこと、社会
のこと、人間のこと、自然のことなど、いったいどれだけのことがわかっているのでしょうか。
肉眼で見える範囲は限られていますし、見えたものも、自分の知っている範囲でしか認識できません。自分が見て分かった一部を全部であるかのように思い込んで「これはこうだ」と決めつけたりします。
歌手の加藤登紀子さんが、新聞に亡くなったお連れ合いを偲んで「昨日は夫の14回目の命日。14年たってやっと夫のことがわかってきたような・・・」と書いておられました。私たちはややもすると、いっしょに暮らしているから、家族だから、夫のことは妻のことは子どものことは全部わかっている、と思い込んではいないでしょうか。でも実際は、近くにいるから、いつもいっしょだから見えなくなるものだってあるのです。もっと言えば、自分自身のことだってどれだけわかっているのか・・・
大いに疑問です。鏡に向かってニッコリ笑っている顔だけが私の顔ではないのです。
「無明」とは、何もわからないことではない、すべてわかったつもりでいる心のことだ」という先人の言葉がありますが、ただ自分の知識と経験だけを頼りにして「何でも分かっている、教えられなくても知っている」という心を愚かな心といい、それが人間を迷わせたり誤らせたりする根源なのですよと、教えて下さるのが仏さまの教えです。
「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」と親鸞聖人は述べておられますが、阿弥陀如来の智慧の光に遇うことで、自分が無明の存在であることに気づかされます。気づいたその時から、光に照らされつつ歩んでいく道がひらかれていくのです。
流転 ー 人は得意なもので迷う
(「心のともしび」10月の言葉)
人間誰しも、時運の思いどおりにことが運ぶと得意になり、どうかすると傲慢になったりします。
得意の絶頂の状態を「有頂天になる」と言ったりします。
「有頂天」を辞書で引きますと、「喜びで舞い上がるさま。ひとつのことに夢中になり、うわ空になること」とありますが、実は元をただせば「有頂天」という言葉は仏教語なのです。
「有頂天」の「天」は「天界」を意味し、そこに住む人を「天人」と言います。このことから、有頂天になるとは、頂上世界に安住して自分を忘れてうわの空である状態を指すようになったのです。
ただし、頂上まで上りつめたとしても、いつまでも頂上にとどまれるわけではありません。必ずいつかは降りなければならないのです。たとえば今を時めく芸能人や名棋士たちが、やがては若い才能にその地位を脅かされるようになります。
将棋界でも名棋士たちが、中学生の藤井四段に次々に敗退していることはご承知の通りです。
天界の住人である天人も、死の直前には輝きを失い誇りを失い、自信も気力も萎えていき、天界という考えうる限り最も恵まれた境遇すら喜び楽しむことができなくなる、とお経には説かれています。「有頂天」の状態は、人間に自分を見失わせてしまう、ということなのでしょう。
ある人に「いいことが続くときほど足元をしっかり見て、気を引き締めなければいけないよ。」と言われたことがあります。
ものごとが順調にいくと、あたかもそれは自分だけの力で成されたかのように錯覚したり、自分を省みることが疎かになり、思わぬ失敗を招いてしまうということなのでしょう。
「有頂天」にならぬよう、地に足をつけてしっかり歩きたいものです。
眼を開けば どこにでも教えはある
(「心のともしび」9月の言葉)
私たちは生まれてこの方、親や家族をはじめ、多くのご縁のあった方々から、人間として生きていくうえで大切なことを「教えられて」成長してきました。
また今現在も、さまざまなご縁の中で大切なことを教えていただきながら生きています。
子ども園では子どもたちの姿に、人間の心や体の成長・発達の過程をおしえられると同時に、私たち大人のあるようや、今の時代・社会の課題も教えられます。
昔から言われるように、まさに「子は親の鏡」であり「社会の鏡」でもあることを日々感じます。子どもの言葉や行動に教えられながら育て、寄り添う大人も育てられていくのが子育てであり、保育・教育というものなのでしょう。
また、大切なことを教えてくれるのは何も人間には限りません。山や川、庭の木々や季節の花、そして昆虫などの生きものは、私たちに自然の不思議さや豊かさを語りかけてくれます。
ただ教えは、それを受取ろうと思う心がなければ素通りしていきます。「心の眼」が開かなければ、大切なことは見えてこないし聞こえてこないのです。
金子みすずの詩『星とたんぽぽ』には、みすずの「心の眼」がとらえた真実の世界が描かれています。
「青いお空のそこふかく
海の小石のそのように
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星は目に見えぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。」
(『星とたんぽぽ』金子みすず)
「心の眼」が開けば、ふだん見慣れているものでも、これまでとは違って見えたり、見えなかった部分が見えたりすることでしょう。見えるということは気づくということであり、教えられるということです。
「なるほど!」「そうだったのか!」という発見や驚きが多いほど、人生は豊かになると思いませんか。
争いの種は私のの心から生まれる
(「心のともしび」8月の言葉」)
暑い日が続いています。さて、8月は戦争や平和について考える機会の多い月です。
日本は第二次世界大戦後、戦争に国民を送り出すこともなく、他国の人を殺したり久傷つけたりすることなく70年余りを過ごすことができました。世界中で戦争や紛争が絶えない中、このことは本当に有難いことであり、世界中に誇ってよいことなのではないでしょうか。
さて、親鸞さまの先生である法然さまは武士の子どもでした。お父さんは国を治めるお役人でいしたが、戦争に巻き込まれていのちを落とされます。最後に少年だった法然さまに残された言葉が「決して私の仇(かたき)を取ろうとしてはならない。もしおまえが私の仇を取れば、その子どもがおまえのいのちを狙うだろう。だからおまえは怨(うら)みを忘れてお坊さんになって、仏さまの教えを伝える人になってほしい」というものでした。
お釈迦さまは「この世においては怨みに対して怨みをもって返すなら、いつまでも怨みが消えることはありません。怨みを捨ててこそ怨みは消える。これは永遠の真理です」とおっしゃいました。
やられたらやり返したいのが人間の心です。でもそれではいつまでたっても争いはおさまりません。また、争いはそれぞれの「正義」のぶつかりあいです。自分は正しいと思うからこそ、相手を攻撃するのです。これは何も戦争に限ったことではなく、私たちの日常の争いごとやもめごとも同様なのではないでしょうか。
自分が正しい、という思い込みを少しおいてみる。相手の言い分も聞いてみる。
それだけでも、争いはずいぶん減りますよ、と仏教は教えています。
無常ー この夏もやがてあの夏になる(2017年7月)
み仏さまと親鸞さまをご安置してある<つるだ同朋子ども園の玄関ホール>には、できるだけ季節の花を飾るように心がけています。季節の花が一輪あるだけで、その空間には生き生きとした空気が流れるような気がします。しかし、その花もやがては枯れていきます。
私たち日本人にとって、花といえば桜をさすほど桜は特別な花です。しかし、美しく咲き誇る桜も、雨や風を受けてやがて散っていきます。とても惜しい気がするのですが、もし桜が散らなかったら、私たちはこれほど桜の花に思いを寄せないかもしれません。散るからこそ、一年に一度しか見ることができないからこそ、桜の美しさは私たちに鮮烈な印象を残すのです。
すべてのものは変化し移ろっていく、という考えを仏教では「諸行無常(しょぎょうむじょう)」といいます。人間が年を取りいつか死んでいくのも諸行無常なら、子どもが赤ちゃんからおとなへ成長していくのも、またたく間に今年が去年になっていくのも諸行無常です。一瞬一瞬がとどまることなく移ろっていく、そんな時間の流れの中に存在しているのが私たちなのです。
詩人の高見順は、がんの宣告を受けた後、こんな一文を綴っています。
「電車の窓の外は、光に満ち喜びに満ち、生き生きと色づいている。
この世ともうお別れかと思うと、見なれた景色が急に新鮮に見えてきた」
自分のいのちの限界を知った時、今まであたりまえだった風景が、あたりまえではなく「有り難い」ものと受け止められるようになるのでしょうか。
一瞬一瞬を尊く愛おしいものと受け止めることができるようになるのでしょうか。
「諸行無常」は移ろっていくからこそ、今この一瞬を大切にしなさい、と私たちに教えてくれています。