法城寺の沿革
明治18年頃、開基住職、副 慈雲によって鶴田真宗本願寺派説教所として設立された。同22年に大火にあい、建物一切を焼失した。その後、本堂を門徒が建立し、庫裏の一部は民家を持って来たといわれる。開基住職、副 慈雲は大分県宇佐郡院内町副、光善寺の衆徒であったが、本願寺派より派遣されたものである。大分の光善寺は土地の城主、副氏の菩提寺であったと記録されている。寺号公称は明治30年5月15日願い出、同31年1月14日県庁受付して鶴田真宗本願寺派説教所を上宮山法城寺とし公称して寺院創建した。このことは明治32年1月24日、鹿児島県知事子爵加納久宜より知らせがあった。当時の門徒は307戸。内陣の宮殿、本尊、他法物等は開基が赴任に当り供奉したものである。明治35年2月22日開基逝去、その後、信教寺住職野崎流天師が住職代務となった。大正8年3月21日、開基住職の遺子、副 梅嶺が二代目住職となったが、昭和21年9月24日に逝去したため、泉福寺前住職横井仁也師が住職代務となり、その後、昭和24年12月24日、副 達朗が三世住職となる。昭和43年2月29日、火災のため、本堂、庫裏全焼、法物、家具類一切、灰贐に帰したが門徒各位の協力により復興、教化に取り組みながら将来への飛躍をはかりつつある。
参照:寺号公称百年記念誌『法城を支えしもの』より